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zoom RSS 「ジュニア日本文化検定」の中止を求める緊急集会に参加して

<<   作成日時 : 2006/07/29 11:12   >>

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7月も終わりになった。
まだ梅雨は明けてない。
ときおり夕立が降るけれど、そうでなければ、入道雲満載のまぶしいばかりの青空である。
梅雨空に慣れきってしまった目には、痛々しいほどのまぶしさである。
空は「ええかげん、梅雨のことは忘れ〜」と言っているみたいだが、まだ梅雨明けじゃないんだ。

さて、26日の夜に行なわれた『「ジュニア日本文化検定」の中止を求める緊急集会』に参加してみた。
うちは子どもたちは高校を卒業しているので、昨今の小中学生の様子を聞くのは、夫がやっている美術教室の様子から判断することしかないのだが、しかし、「こんなテキスト配られたんや」という子どもたちはいない。
テキストがどういう状況で配られたのかは全く分からない。
集会の次の日、夫が買い物に行くのに同行して書籍部に行き、このテキストを大枚1000円をはたいて購入した。
こんなことでお金を使うのは、もったいなさ過ぎるが、小学生の親でもないので仕方ない。

この集会に参加して思ったことは、執筆者である先生が参加されていて、ほかにも執筆者を知っている人がいて、同様に「困ったことだ」と言っているのを聞いて意外だと思ったんだ。
なぜなら、いわゆる共同制作だから、いろいろ検討して作成されたのではないのかということ。

話を総合してみると、
・ 教育委員会から執筆者に選ばれた。
・ 執筆者会議というよりは、説明会。
・ 「検定」を聞いたのは、つい最近。
・ ある意図を持って執筆したが、出来上がった本を見てみると、かなりの部分変更されていた。
・ 変更する旨の通知はなかった。
・ どの部分を誰が書いたのか、定かでない表記に抵抗を感じる。
 (が、今となっては変更された文章に(執筆者:だれそれ)とあってもまたそれは困るだろう)

つまり、一方的に「先生、この部分を担当して」と言われて、書いたが、細かなところで修正された。
その修正も「訂正」ではなく、意図を持って修正された、ってことだろう。
共同制作の現場は私はわからないけれど、複数の人に執筆依頼する場合においても、どういう観点で書いてほしいとか、文章の構成、ページの構成などを説明し、表記の仕方まで注釈して、執筆を依頼するであろうし、担当した文書のあとに(文・だれそれ、イラスト・だれそれ)という記載をするであろう。
また、修正が必要な場合は、執筆者にやはり提示するのは、依頼者の義務であると思われる。
共同制作の現場は見ていないが、2月に亡くなった義父が先年、専門分野で本を書いたときは、しょっちゅう出版社が来て、文字の訂正や表記の仕方について話し合っていたし、ゲラ印刷の文字校正は私たち夫婦もやらされている。
つまり、これらの作業はつき物なので、出版社は「ジュニア日本文化検定」推進プロジェクトの事務局あたりでやられていて、執筆者には回ってこなかったと予想される。

私の予想に反して、執筆者の先生方はもしかしたら、被害者かも知れん。
執筆された先生方の多くはこのテキストについてどう思われているのだろう。
検定の話は、全く聞かされていなかったということだが、自分の赴任する学校でいろいろと手直しされた自分の書いた本が使われることに、またそれをもとにして検定(子どもたちにとっては単なる「社会の全市一斉テスト」)が行なわれることに、何も感じないという先生方はいないだろう。
「民衆の住んでいた京の都の文化」から、「天皇や貴族が住んでいた日本の都の文化=こんにちの日本の文化」と位置付けられるのは、かなり抵抗がある。

先日、京都府外に住む若い友人に、この購入したばかりのテキストを見せた。
「1000円も出して買ってん」
「はあ、これがなんすか」
「店に売っとる。……京都だけかも知れんが」
「はあ、……」
「だけど、京都では、小学生のテキストや」
「へえ」
「京都市教育委員会がつくった」
「……」
裏表紙から、少しずつページをめくる。
「げ、なんすか? 広告ばっかりやん」
「えげつないやろ? これ、子どもらにしたら、教科書なんや」
「……教科書に広告って載せていいんですか」
「あかんやろ。……京都は治外法権になるかも」
「……こわっ!」
「文章はな、京都に天皇がいた時代、だけ。それと、その文化を受け継ぐ現代の文化と企業」
「なんなんですか」
「なんなんですか、私もわからん。文化を伝えたいんか、天皇や愛国心をもつことなのか、ごちゃまぜなのか」
「……」
「今の子どもは受難やで〜」
「うん」

さてさて、ともかく検定を何とか受けさせないようにという、まあ、消極的だが、当面はそれしかないという動きがある。
当日の帰りに執筆者先生と方向が途中まで一緒だったので、戦略などを聞いてみた。
「学校というところは、保護者の意見に左右されるところです」
さもありなん。
いろいろな現場を私は子どもたちの小学生の間に少しだけ見た。
「先生を辞めさせよう」という動きや、「○○くんを学校に来させないようにしよう」と動きが保護者の間にあった。
そのことはかなり子どもたちの学習態度や友達関係に影響した。
今の学校の悪い部分はおおよそ保護者の「学校の先生のいうことなんか!」という態度に表れている。
そのことに学校はうまく対処できていない。
先生方も社会をよくご存知でない。
二重にも三重にも悪いことが影響しあって学級崩壊、学校崩壊が始まっている。
その保護者に声をかけるか?
ちょっと悩みどころ。
先生も被害者であることを留意して、子どもたちが間違った文化の継承をしないように保護者に動けということなのかなと思う。

京都市の一都市だけの問題ではない。
こころのノートは京都市が発祥である。
門川教育長は「次の教基法を京都が先んじる」と国会の委員会で宣言しているそうな。
京都が何でも手始め。
他府県は京都の後に続け、みたいな。
京都市民が問題化するのは当然だが、他府県、他都市の人も注目し、市民圧力をかけてもらわないと。
子どもがいない人だって、私には関係ないわ〜と思いたいだろうが、自分の身内や近所の子どもたちが洗脳されて、そういう社会になっていくと思うと、問題意識は十分持てると思う。

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